韓国史を映す鍾路マーケット

業界レポート / 2018年04月

韓国の発展と共に歩んだ鍾路マーケット

韓国で最も古い電子部品街 “鍾路マーケット”(チョンノ)。1970年代には一万店以上の電子部品専門店が軒を連ね、韓国発展の一翼を担った重要な地域ともいえます。そんな歴史を持つ電子部品専門街“鍾路マーケット”を今回は、紹介したいと思います。

 

はじまりは、意味ある空き地
1945年ソウルへの空襲を想定し鍾路(チョンノ)に延焼遮断帯(不燃空間)が設定されました。東京大空襲で発生した火災旋風を教訓に鍾路から筆洞(ピルトン)までの幅50m、長さ860mを空き地としたのです。火災被害を最小限に抑えるための防災グリーンベルトと言えるでしょう。
後に解放と戦争の混乱で家を失った被災者たちが鍾路の空き地に無許可で仮小屋を建てまじめ、あっという間にグリーンベルトを埋め尽くしてしまいます。1960年代に入り、仮小屋で埋め尽くされていた鍾路エリアに都市開発計画が浮上します。

赤枠が鍾路マーケット 75数年前は、空地(延焼遮断帯)でした

 

電子産業のメッカ“世運商街”
1968年、仮小屋で埋め尽くされた鍾路エリアの中心に地上17階8区画で構成された“世運商街” (セウンサンガ)が完成。韓国初の住商複合施設として誕生した世運商街は、1階から4階は電子部品、半導体、電気材料、家電製品、音響機器など様々なエレクトロニクス専門店が入店していました。

リノベーションされた現在の世運商街 上層部は解体され、新たなエレベータが設置されています

電子機器のアッセンブル工場としての側面も持ち合わせ、世運商街の中で部材を集め、電子機器を組立、販売まで行っていました。1970年代は、電子産業のメッカとまで呼ばれ、上層の住居部には高所得者が競って入居した超人気物件だったそうです。
世運商街を中心に電子部品専門街として成長し続ける鍾路マーケット。最盛期には、総面積は438,585㎡。なんと東京ドーム10個分にまで拡大。電子部品の専門店だけで10,000社以上がマーケットに存在していました。これだけの敷地でも国内外から人が押し寄せるので当時の鍾路マーケットは常に人であふれていたようです。

 

移転とアジア通貨危機


1970年代後半になると江南(カンナム)区の開発を皮切りにソウルのあちこちに新しい高層マンションが建設されていきます。徐々に鍾路の居住エリアとしての地位は低くなります。しかし電子部品街は、パソコンをはじめ各種電子機器普及が進みは繁栄を続けていました。
1980年台に入るとソウルへの一極集中が加速しインフラが限界点に達しようとしていました。ソウル中心部に位置していた鍾路エリアは、新たな都市計画に組み込まれ政府指導による「世運商街移転計画」が発表されます。いわゆる再開発による立ち退きです。
1987年龍山(ヨンサン)駅西部に龍山電子商店街を建設。メッカとまで呼ばれた鍾路マーケットの撤去・解体がいよいよ現実味を帯びてきました。
元々は無許可で建てられた仮小屋も40年以上経ち債権者も多く、いろいろな利権が複雑に絡み合いスムースに移転計画が進みません。そんな中、アジア通貨危機が韓国を襲います。行政は、止むを得ず移転計画を撤回し鍾路マーケットの再建へと舵をきります。

 

 

老朽化と進化の交差点
老朽化した鍾路マーケットは、防災や物流などいろいろな面で問題を抱えていました。90年を前後して新設された九老(グロ)や龍山の電子部品街は、機能的であったため自然と鍾路から移転していく店舗が増えていきます。2018年時点でも少し高いところからマーケットを覗くと70年前の仮小屋の名残を見ることができます。現在、全盛期の1/10の約1,000店舗の電子部品専門店が営業をしています。最近では、行政指導の元、スタートアップ企業や電子部品以外の業種を誘致し、街の活性化を図っているようです。鍾路マーケットは、新たな空気を取り込むことにより進化しようとしているのです。

上から見た鍾路マーケット 70年前の仮小屋の名残が見て取れます この下に無数の路地が張り巡らされています

世運商街の西側には、5大古宮の一つ慶熙宮(キョンヒグン)もあります。ここに立ち360度見渡すと、すぐそこにあったはずの現代史が遠くに感じてしまいました。

なぜか?鍾路には興味を示さず、慶熙宮で観光を楽しむ半導体事業部の植木さん

下島元





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